第拾肆話




「お姉ちゃんだって頑張ってるんだよね! 私ももう少ししたらお手伝い出来るよ!」
 満面の笑みで見上げてくる少女の頭を撫でながら、朝光は一時の和やかな空気を堪能する。遠くから母親のからかう声が聞こえ、それに対してじゃれついてくる少女は頬を膨らませる。
 その率直な反応さえ今の自分にはとても愛おしい。なにせ次に出立したら何時会えるか解らないのだから。
「いーっぱい勉強してお姉ちゃんと一緒にみんなを守るんだ! お姉ちゃんと私だったら出来ない事なんてないもんね!」
 見上げてくる瞳は確固たる決意を秘めていた。その意志の強さに、一瞬不安を抱く。
 この子はまだ恐怖という感情を持っていない、と。
 無理しなくていいの、好きなことをしなさいな。おねーさんは1人でも大丈夫だから。
 そんなことを呟いたのだろうか。その言葉を投げ掛けた瞬間、途端に自分を見上げていた瞳が曇る。
 あ、まずいと思った次の瞬間にはその瞳の縁に水滴が溜まっていた。
「やだ。お姉ちゃんのお手伝い出来なきゃやだ!」
 利口ぶっていてもまだまだ幼い少女は、自分を不必要と感じたのだろう。
 ぐしぐしと目の縁を拭いながら、自分に抱きついてくる。そんな反応を見せられて、誰がこれ以上拒絶出来るだろうか。
 ぎゅっと自分に押し付けられた身体を優しく抱き締めながら、朝光は愛おしさにやける頬を引き締め、一言有り難うと呟いた。まだ涙で濡れている瞳で見上げていた少女が、ぱっと満面の笑みを貼り付かせた。
 この笑みだ。この笑みで何度自分は煮え湯を飲まされたことか。しかし、実際に少女の笑みを目の当たりにすれば、煮え湯程度何ほどのことがあろうかと思う。
 この歳で人を惹きつける魅力を持つとは流石自分の妹だと、半ば色眼鏡で見ながら、少女を膝の上に座らせる。自分とは違い短く切りそろえられた頭髪を指で漉きながら、まだ小柄な少女の体温を感じる。
 撫でられる事を喜ぶこの娘は、えへへ、とにやけならが自分から頭を擦り付ける。まるで懐いた猫のような反応に、我知らずと朝光も笑みを浮かべる。
 と、遠くから少女を呼ぶ声がした。それに反応し自分の膝の上から飛び降りる。とてとてと走り出そうとしたその少女は、ふと自分を振り返ると満面の笑みを浮かべ、言い放った。
「お姉ちゃんもお父さんもお母さんもおばさんもおじさんも、みんな私が守ってあげるね!」
 腰に手を当て小さな胸を反り返しながら自信満々に言い切るその姿に、安心感と可笑しさを感じ、朝光は微笑みながら言葉を返す。
 ―――しっかり、皆を守ってね―――



 何が起きたのだろうか。ただ聞こえるのは泣き声だけ。誰の声だ? こんな耳元で聞こえる。
 妙に手が重い。なんだこれは。腕で何かを抱くように持っている。どうりで重いはずだ。
 これは何だ? 紅い、赤黒い、そしてぬるぬると嫌な感触がする。それに若干温かい。
 これは何だ? とても嫌な臭いがする。鉄錆に近い、顔を顰めるような臭いだ。まるで―――。
 血だ。
 ああそうか。私は今血の塊を抱いているのか。しかし、血の塊とは何だ。それに先程から耳に響く泣き声は誰のものだ。とても聞き覚えがある。
 私の肩に誰かが触れる。その人物が言葉を投げ掛ける。
 ―――もう無理だ、放すんだ―――。
 その言葉を聞いた瞬間、腕に抱いていたものが一気に重量を増した。おもわず手放したそれは、どちゃりと生々しい音を立てて地面に転がる。紅い筋を引いて地面に転がるその物体は、驚いたことにまだ動いていた。その物体から何かが伸びてくる。
 私の方へ何かが伸びてくる。なんだ? それ自体も赤黒くこちらを向いている断面からは白いものが飛び出している。そこから滴り落ちる液体によって地面に転々と跡が残る。
 その伸ばされてくる物体は私の目の前で迷うようにふらついた。思わず手を伸ばしてその物体を掴んだ。
 さあ、目の前にある物体は何だ? 良く見ろ、普段見慣れているものだ。目を背けるな、その正体をしっかりと確認しろ。
 赤黒い断面、白く硬いものが飛び出している。滴り落ちる液体は止まりそうにない。断面周辺の皮がびろびろと引き延ばされ無惨に千切れ掛かっている。
 皮? 何の皮だ? 表面の紅い液体を拭うと黒く焦げた中に、肌色が見えた。肌色の皮? ……ああ、ようやく解った。今自分が手に握っているものは。
 手首の千切れた人間の腕だ。
 自身の目の前に転がる物体が、死にかけている人間だと気付いた。
 ―――手遅れだ。彼女はもう助からない―――
 肩に手を置いている人物が目の前に転がる「残骸」から、自分を引き離そうとする。しかし自分はその「残骸」を手放すことを嫌がった。手を放しては駄目だ、と頭の何処かが呼びかけている。
 と、目の前の「残骸」がもぞりと動いた。それに応じて手に握っている「残骸」の一部も動く。目の前の「残骸」は驚いたことに声を発した。
「ゴめ……ん…ナサ……い」
 掠れたその声が、自分の一番愛おしい人間のものだと気付いたその瞬間、視界が暗転した。



「ふっ!!」
 鋭い呼気とともに丈が突き出されてくる。先端は衝撃吸収素材で覆われているものの、丈自体が持つ重量と、繰り出される速度を鑑みれば、まともに突かれるわけにはいかない。万が一にでも鳩尾にでも食らえば、今朝食べた合成アジの開き定食と対面する羽目になってしまう。
「おっと」
 口調は軽く、しかし対処は冷静に。突き出された丈を半身で捌き、相手が引ききる前に、一気に距離をつめる。
 とは言え、これで決まるぐらいなら訓練にならない。再度の突き出しが間に合わないと判断した相手は、左手を離し、丈の後部をつかんでいた右手のみで横殴りの旋回を繰り出す。
 自身のわき腹へと強襲してくる丈をその場にしゃがんで回避。
 短刀では受け止められない。重量が違いすぎるため、防御の上から持っていかれることが目に見えている。
 こちらの動きが停滞した隙に、相手は後退。再び丈を半身に構え、いつでもこちらに付きこんでこれる体勢を作り上げた。
 どうしたものかしらねぇ……と小さく朝光はつぶやく。短刀と丈ではリーチの差は言うに及ばず、重量なども圧倒的に水をあけられている。こちらの利点といえば取りまわし易さだが、まず攻撃が当たる距離に近づかなければならず、近づいている間に先程のように最低二回は攻撃が繰り出されてくる。
 かれこれ30分弱攻防を続けてきた所為で体力自体磨り減っているし、頭にもだいぶ血が上っている。このままじゃジリ貧よねぇ、と僅かに残っている冷静な思考で結論づけ、トントンと軽くその場でジャンプ。先程の攻防で熱を持った筋肉を冷却する。
 元々得物に差がありすぎるため、負けて当然の模擬線なのだが、今回に関しては少々話は違っていた。
「おねーさんも、久しぶりに息抜きしたいのよねぇ」
 手の中で模擬短刀を弄びながら、そう言葉にする。対して相手は、片眉を跳ね上げただけで、言葉は返してこなかった。もっともその態度自体が、雄弁に語っている。
『そういう台詞は勝ってから言え』
 そう無言で伝えてくる相手に、やれやれと首を振って応えた朝光は予備動作無しに一気に距離をつめる。
 先程までの無意味な言動は、すべて相手に自身が体力を回復させていると思わせる布石。回復したところでジリ貧なのだから、それならば残っているうちにけりをつけたほうがマシである。
 普段の朝光を知っている人間から見れば、あまりにも似合わない短絡的な行動。案の定下から掬い上げるような一撃で、握っていた短刀を振り払われる。短刀を投げ上げたような不自然な姿勢でその後の追撃は何とか回避したものの、得物を失った朝光は、もはや徒手空拳しかない。
 一説には素手と木刀で約三倍近い差が出るという。現在の朝光はそれ以上の窮地だろう。見学人からも、もはや勝負は決まったという気配を感じ取れた。朝光自身眼前に迫る丈の先端を見つめ続けても焦りは無い。
 諦めか、達観か。回避も防御も間に合わないであろうその攻撃を、ただじっと見つめ続ける。
 ピタリ、と迫ってくる先端が眼前一寸で止まった。
「貴様らしくも無いな。ヤキが回ったか? 朝光」
 朝光が僅かでも体を動かせば、顔面を容赦なく突いてやる、という気配を放ちつつ伊隅が冷たく言い放つ。その言葉には無謀な突進を行い、結果として追い詰められた同期への、嘲りが含まれていた。
 完璧に詰みの姿勢を作り上げた伊隅は、朝光が降参の言葉を吐かないことを訝しがりながらも武器を下ろさない。
 降ろさないが突きもしない。上司と部下とは言え、幼馴染。流石に顔面に丈を叩き込むことに躊躇いでもあるのだろうか。
 いや、そんなな訳が無い。自分の勝ちが揺らがないことに自信を持っているのだ。じっと丈の先端を見つめていた朝光は、ふっと形の良い唇をゆがめ一言言い放った。
「期待を裏切らないわねぇ」
 外野はその言葉の真意を測りかねた。唯一意味を悟った幼馴染が、停止させていた丈を突き出そうと動いた瞬間。
 彼女の頭上に模擬短刀が落下した。
 ゴツッ! と鈍い音を立てて伊隅の頭上に激突した模擬短刀は、そのまま地面へと落下する。周囲も直撃を受けた伊隅自身も、そのままの姿勢で固まった。
 それを見届けて朝光は言い放つ。
「みぃちゃん死亡ね。よっておねーさんの勝ちよん」
 丈を突き出した姿勢で固まった伊隅が何か言いたそうに口を開いて、閉じる。それを何度か繰り返して、結局言葉は発しなかった。
 そう、いくら詰みの姿勢を保っていようが、伊隅の得物は朝光に接触していない。そして武器が接触しなければ死ぬこともなく、朝光自身、自身が死亡判定を食らったとは認めておらず降参もしていない。対して朝光が所持していた模擬短刀は、腹立だしいほど正確に伊隅の頭を捉えていた。
 結果として伊隅の武器が命中する「前」に、朝光の武器が命中「した」ことになる。死人に口無しとはよく言ったものである。現に、目の前の幼馴染からは反論が出てきていない。
「いやぁ~流石に寸止めされたときはおねーさんも肝が冷えたわねぇ。みぃちゃんのことだから止めるとは思ってたけど。判ってても怖いものは怖いわぁ」
 地面に落ちていた模擬短刀を拾いながら、朝光が軽く言い放った。自身の性格を悉く読まれ、その通りに動かされたことに、伊隅の頬が赤くなる。
 朝光の罠は無謀に突っ込んだ時点で発動していた。
 伊隅のことだから武器をわざと打たせて、こちらが無手になれば、余裕を生むはず。弾かれたように見せながら模擬短刀を頭上に投げつつ、相手がその場から動かないよう着かず離れずの距離を維持し回避に専念。確実性を生むため、詰みの姿勢まで持っていかせた。
 相手が見ず知らずの人間であれば、朝光自身これほど無茶な賭けには出なかった。だが、相手は幼馴染。お互いにオムツを履いた時期から顔を合わせている。もちろん性格は言うに及ばず、好意を抱いている男や好きな食べ物、初潮や生理の時期まで把握しているのだ。
 故に読み勝った。敗因としては目の前で不満げな表情をしている女性は「優し」かった所為だろう。が、彼女達は軍人である。そして武器を使用する相手など「敵」しかいない。
 その意識をはっきりと持てるかどうかがこの模擬戦の分水怜だったのだろう。余裕などなく、情けなど見せず、素直に朝光の顔面に丈を叩き込んでおけばよかったのだ。
 やはり読み合いは朝光のほうが一日の長があるらしい。
「寝不足の貴様に負けるとはな。私も判断も甘かったようだな」
 ……前言撤回、たいして変わらないようだ。
 朝光自身も伊隅にしっかりと見抜かれている。嫌な夢見の所為で目の下に薄く隈を作っている内心痛いところを突かれつつも、伊隅の頭を一度ポンと叩き、見学者を集めた。嫌そうな顔をする伊隅。
「貴様その行動はやめろ。私達もいい加減、子ども扱いされる歳ではないんだぞ」
「若干心に痛い発言は無視するわね。まぁ、行動が読める時点でおねーさんにとっては『みぃちゃん』よ。妙に大人びて、そのくせまーくんのことになるとムキになる可愛い可愛い妹分ね」
 笑顔を浮かべながらそう言いつつ、ついでに横から繰り出される裏拳を回避しつつ、集まったヴァルキリーズを目にして、伊隅にだけ聞こえるように言い放った。
「みぃちゃんにとってはこの娘達全員がそうでしょ? そういうこと。子供を助けるのは大人の役目よ。だから、細かいことに足止めてちゃ駄目よ。後ろから押してあげるから、しっかりと皆を引っ張って頂戴な」
 そういって様になっているウインク一つ。それを目にして伊隅はフンッ……と小さく吐き捨てる。その頬が先程とは違った意味で赤く染まっていることに気づいた朝光は、一つ綺麗な笑みを浮かべ集合した娘達に向き直る。
「はいはーい。それじゃ部隊長が戦死しちゃったんでおねーさんが引き継ぐわねぇ。えーと、朝にも言ったとおり、今日は訓練半日のみよん。さっきの模擬戦で2人一組でやりあってもらったけど、勝ったのは誰々? ……はいはいはい、なるほどねぇ。これはまた一波乱ありそうな結果になっちゃったわねぇ……あ、ごめん話がそれたわ。んん、それじゃ昨日言ったけど今日は訓練ここまでね。この後は自由時間よー」
 その言葉を発したとたん、場の空気が一気に騒がしくなった。
「それと負けた娘達は悪いけど基地で待機しててねぇ……文句ならみぃちゃんにどうぞー」
 都合の悪いときだけ生き返らせるな、と横から聞こえる文句を聞き流しつつ、連絡をテキパキと伝える朝光。集合時間や帰還時間も伝え終え、はい解散と部隊をバラけさせた。
「うわーん! 久しぶりに茜ちゃんと一緒のお休みだったはずなのにぃ! ねぇー晴子ちゃーん、お願いだから代わってぇっ!!」
「あははは、駄目だよー多恵。私だって楽しみにしてたんだからね~。お土産は買ってきてあげるから大人しくしてなよー」
「世知辛い世の中ぁ~……」
 滂沱と涙を流しながら築地が縋り付いていたり、それを優しくながらも柏木が頑として突き放していたり。
「ふむ……折角の機会だから少々羽を伸ばさせて貰おうかな。いやしかし……梼子、お前と離れるのも心苦しい物がある……。だが、時には苦渋の決断を迫られるのも、私達の宿命と言うことか……」
「あらあら、私はお気持ちだけで充分ですよ。たまには、宗像中尉、ではなく、宗像美冴に戻られては如何ですか? それに……人の恋路を邪魔するヤツは馬に蹴られて地獄に堕ちろ、との格言もあることですし。その分お土産は楽しみにさせて貰いますよ?」
「ああ梼子……その言葉だけで、私の心は地獄の責め苦から救済されたよ。必ずやお前の心を満たす物を手に入れてくるから待っていてくれ」
 妙に芝居がかった会話をしている2人が居たり。
「ごめんね、水月。茜の面倒はちゃんと見るから今日は我慢しててね? 欲しい物があったら何でも買ってくるから」
「いいのよ遙。そんなに気にしないで。それに待機だって言っても基地内に監禁される訳じゃないんだし。私も少し鍛錬が足りないと思ってたとこよ。自手練でもしてるわ。そして今度こそあのガキンチョを叩きのめしてやる!」
「それはそれで八つ当たりだと思うけど……」
 微笑ましい親友同士の会話があったり。
「………」
「その……如月少尉……あの……すみません」
「……いや良い……なんか情けなくなるから良い……負けたあたしが悪いんだ……」
 申し訳なさそうな涼宮の前で、酷く落ち込んで地面にのの字を書いている如月が居たり。
 因みに1人余っていたリオは敗者復活戦ということで速瀬とやりあい、勝利を収めている。それが速瀬の憤る原因の一つであるが、本人はそっぽを向いて気にしていない。よく判らないけど負けたほうが悪いんだ、と言外に語るその姿に噛み付かんばかりの反応を返す速瀬はさておき。
「それじゃ13:00までに準備してきてねぇ。遅れた娘は荷物持ちになるわよん」
 軽く言い放った朝光に、はーい、と元気よく返事を返しながら隊舎へと踵を返す女性達。それに若干沈んでいる何人かはさて置き、朝光は今ある問題へと向き直った。
「さてリオちゃん。さっきから訳が判らないって顔をしてるから簡単に説明するわね。今日はヴァルキリーズではとても珍しい休息日なの。普段滅多に休めないおねーさん達の唯一の心の洗濯日なわけ。それで皆妙に気合が入ってたのよん」
 成る程、と速瀬の憤りを一身に受けていたリオはようやく納得顔を作る。いくら軍に籍を置いているといっても、全員うら若い女性ばかりである。遊びたい盛りでもあるのだろう。
「とは言え全員が全員出張るわけにはいかないから、恒例どおり白兵訓練の勝者のみってなったわけよん。因みに、逆に言えば勝ったからには遊ばなければいけないってなるわね。でないと負けた娘が可哀想でしょ?」
「そうですか。でもボクは別にどうでも良いんで速瀬中尉とでも交代しましょうか? どうせ外に出たところで遊ぶことなんてないでしょうし」
「却下ね。逆に惨めになるからあんた行って来なさい」
 いつの間にそこにいたのか、朝光の横で腕を組んだ速瀬がそう憮然と言い切った。妙なところで融通が利かない彼女に顔を顰めながらも、リオは別の道を探る。
「ボクは軍服しか持ってませんから。これで外に出るのも広告塔みたいで嫌ですし遠慮しま……」
「梼子ちゃん」
「お任せください」
 リオの言葉を遮って朝光が一言下命した。またしてもいつの間にか現れた風間が、ガッシリとリオの腕を掴む。
「ではレムレース少尉。朝光中尉からの命令もありますし、私に任せてください」
「任せるって何をですか。ちょっ、風間少尉?」
 イイ笑顔で、有無を言わせずリオを引き摺り出す。リオが予想外の膂力に驚いている隙に、2人の姿は隊舎へと消えていった。
 残された女性2人、ふう…と、どちらからともなくため息が漏れる。
「さぁてと、このお休みで少しでもあの娘のカドが取れてくれれば嬉しいんだけど……」
 頬に手を当てながら溜息をつく朝光を見て、速瀬は、何だか母親の台詞みたい、と思い浮かべる。
「……みっきー今失礼なこと考えたでしょ。おねーさんの何処をどう見て子持ちの母という感想を思い浮かべたのか、キリキリ吐いてもらいましょうか?」
「いえ、気のせいではないでしょうか」
 じとーと速瀬に顔を向けながら、朝光が詰問する。乾いた笑いを浮かべながら、朝光の勘の良さに舌を巻いた速瀬は、さてどうして誤魔化したものかと、1人額に汗を浮かべていた。



 周囲を行きかう雑多な人々。仲良く走り回る子供や、買い物帰りなのだろう、荷物を抱えた女性がきように人々の間を縫いながら歩き、スーツを着込んだ男性が、腕時計を確認しながら走り去っていく。騒がしいながらも、どこか規則正しく流れていく周囲の風景。
 一定の法の元に秩序だって形成されている存在、人間達の生活する社会、がそこにはあった。
 そんな雑踏の中、リオは一人手持ち無沙汰に佇んでいた。現在のリオの服装は、身の丈に会わない軍装などではなく、丸襟シャツの上に若干丈の短い半外套を纏って、下半身にはジーンズを履いている。歳相応な見た目で、活動的な少年の格好をしている。
 ちなみに彼の服装は連れ出した女性陣によるものだが、それはさておいて、リオを連れ出した当の本人たちは引き摺り出したことなどとうに忘れ、既に個人個人で貴重な休みを満喫している。現に、先程柏木と涼宮が女性物の小物を取り扱っている店舗へ入り込んもうとしていたし、朝光や涼宮は速瀬への土産物を探している。宗像は何やら含むところがあったらしく、今のところ姿は見ていない。
 そんな中、リオは彼女達の姿を遠巻きに見ているだけだった。
 勿論、リオが手持ち無沙汰に過ごしているのは財布の中身が寂しい所為ではない。
 むしろ彼名義で存在する口座には結構な額が放り込まれている。律儀にも―――というか、払わなかった場合どうなるか判らないため―――香月が、リオが元の世界の話をするたびに「情報提供料」振り込んでいたようで、彼自身の実感の無いままいつの間にやら結構な小金持ちなっていたのだ。
 しかし、リオ自身財布の中身を自由に使って遊びまわる、という経験が無いためどうすれば良いのか判らないのである。
 元の世界では、ほとんどの貯金は電子マネーとしてその生涯を過ごしていたし、手元にいくらかの現金があったといっても、それは一日三食食べるためと光熱費や諸々消えていく、つまりある一定の生活が出来る程度の量。リオ自身に、娯楽に金を使うという考えが存在しないため、急に金を渡されて、自由に使え、といわれて戸惑っているのだ。
 歳相応―――外見的な意味でだが―――にしては、ずいぶんと不釣合いに重い財布をポケットに押し込みながら、目の前を通り過ぎていく人々を眺めていく。
 活気ある中、一人だけ場違いに冷めた表情で周囲に目を配り、それとなく自分の居場所が無いことに気がつく。
 こういう場合、居場所とは準備されるものではなく、自分で見つけるものなのだが、少年にそこまでしようという意欲は湧いてこない。
 もういいや、うろついて時間でも潰そうと歩き出した彼。待っていろ言われているが、いまさらリオがそんなことを気にするはずがない。
 と、突如として背後から襲ってきた衝撃に、膝を突いた。同時に何かを地面に落す音。
「あやや」
 背後から聞こえてきた声とともに、自分の横を幾つかの果物が転がって通り過ぎようとしていく。とりあえず、自由を掴み取ろうとしている果物に手を伸ばしてさっさと拾い、背後へと振り返った。
 そこでは自分と同じように、地面に逃走している果物をひっ捕らえようとしている少女がいた。拾う先から傍らに置いてある紙袋に押し込んでいくその動きは、なかなかに俊敏である。
 そんな彼女を見つめるリオに気づかず、少女は逃走を企てた果物たちを粗方召し取り、まるで一仕事終えたかのように、満面の笑みで額の汗を拭った。
 改めて少女……大人とは言いがたいが、子供とも言えない。年齢的には十代後半といったところか。二の腕の部分が膨らんだ白い長袖ワイシャツに胸元には紐タイプのリボン、リボンと同じ黒色のミニスカートに、なぜか胸元のポケットには手帳が一つ。この寒空の下、惜しげもなく晒されている健康的な脚は、小鹿のようなスレンダーさだ。その代償として、若干起伏の乏しい体型であるが。
 まぁそれはさておき、少女の仕事が一段楽したのを見計らって、リオは抱えていた果物たちを引き渡した。新たな犯人達の出現に、おおっ!? と無駄に驚きながらも、少女は袋に押し込んでいく。
「いやー有難うございますっ! お陰で助かりましたよー、やっぱり多少面倒でも細かく分けてもらったほうが良かったですよねっ?」
 溌溂、という言葉が似合う喋り方である。
 何が楽しいのか、少女は朗らかにそう言い放った。しかも最後は疑問文で。リオが応えに窮していると、少女は気にも留めず、袋から果物を一つ取り出し、リオの眼前に突きつける。
「お礼です。勢いで買っちゃったんですけど、正直こんなに要らないでしょうしね。私だって……」
 そこで少女は言葉を切った。さっきまでの勢いは何処へやら、目を細め、眉間に皺を寄せ、じっとリオを見つめ続ける。
「あの……」
 その視線に居心地の悪さを感じたリオが、行動を諭そうと声を掛ける。しかし、それは少女が眼前に突き出した手によって押し止められた。
 突き出した手はそのまま、額に指をやり、うーん……と唸っている少女は口を開く。
「ああっ! もうちょっと待って下さい! あと少しで出てきそうなんですからっ!! え~と、見たことあるんですよね……誰だっけ……んーと……」
「いえ、そうじゃなくて……」
「いえいえ、決して忘れたわけじゃありませんよ? ただちょっと出てこないだけでっ! でもご心配なく、もう少しなんですよ、ここまで、ここまで出掛かってるんです」
 そう言って、首の辺りを指し示す少女。リオとしてはそんなことを聞いているのではないが、目の前の少女には通じていない。額に手を当てうんうん唸っている少女を、さてどうしたものか、とリオは困り果てた。
「あの……誰かと勘違いしてるようですけど、ボクは貴方とは初対面ですよ?」
「何言ってるんですか! この私を物忘れの激しい美少女とでも言いたいんですか!? それはいくら顔見知りでも許せませんが、とりあえず貴方の本名を思い出すことが先決ですからちょっと待っててくださいよというか待て」
「……」
 言葉にならない衝撃と呆れをリオは受けていた。それもそうだ、ここまで突っ込みどころ満載な台詞は、あの朝光でもそうそう吐かないだろう。まずは、美少女という点から修正していくべきだろうか、いやいや、それ以前に何故目の前の彼女はこんなに自分に突っかかってくるのだろうか。
 胡乱な視線で自身を眺められていることに気がつかない少女は、ややあって、ポンと手を打つ。ようやく何かに思い当たったらしい。
「あああああっ!! 思い出しましたっ!! その綺麗な銀髪、ちょっと生意気そうで斜に構えたような視線、男か女かわからない可愛らしい顔に体型、まさしく冬華ちゃんじゃないですか!!」
「……」
 とりあえず、男の身で可愛いと言われても嬉しくないという感想はさて置き、外れ、と言うべきなのだろうか。しかし、目の前で自信満々に胸を張っている少女を眼にしてはっきり言い捨てるのも嫌な予感がする。と言うか、外れと言ったら最後、当たるまで延々言い続けられそうな気がする。
「どうです! 正解でしょう! それにしても久しぶりですね、そして良かったですよー、無事なようで。私も心配したんですよ? お家のほうが大変なことになったって聞いてから随分と音信不通でしたし、こっちじゃ被災者の情報なんてまともに手に入りませんからねー」
「いや……その……」
「うんん、そんなことは言いっこ無しにしましょう! せっかく久しぶりに可愛い妹分に出会えたんですからね! そうだ、冬華ちゃんこの後時間あります?」
「だから人違いだって言ってるでしょ。誰ですか、そのトウカって。ボクはリオって名前ですよ」
 ようやく、否定の言葉を吐き出したリオに対して、少女はきょとんとした目を向け、ついで大きく笑みを浮かべた。
「何ですか、冬華ちゃん、新しい遊びですか? なるほどなるほど、それでは私も付き合わなければいけませんね。何せ冬華ちゃんの一番の遊び相手といえば、私か春姉ぇでしからね。ささ、続きを話してください。何でしたっけ? 冬華ちゃんは、今リオって人……ああ、だからそんな男の子っぽい服装してるんですね。形から入るとは、随分と気合が入ってますね」
 うんうん、と頷いている少女は根本的に誤解している。面倒だと思いつつも、リオは少女の言うトウカという人間は別人だと改めて手短に語った。
「あやややや、冬華ちゃん随分と現実じみたお話を作るようになりましたね。内面も外面も随分と大きくなったようで。これはますますこの後の時間が楽しみですよっ!」
 まったく人の話を聞いていない少女に、もういいと見切りを付け、歩き出そうとしたリオ。
 その袖が何時ぞやと同じようにがっしりと捕まれた。
「どこ行こうとしてるんです? 冬華ちゃんの話が終わったようですし、今度は私の順番ですよ。とりあえず、積る話もありますし私の家に行きましょうか」
 片手でリオを引きずらんばかりの勢い。とっさに手を振り払おうとして、リオは少女の意地悪そうな視線に気づく。
「あやややや、良いんですか? ここで振り払われると私バランス崩して倒れちゃいますよ? さらに言えばその表紙に手に持ってる物が当たり一面にばら撒かれちゃうかも知れませんよ? そしてその原因を作った私と冬華ちゃんは辺りの人たちから顰蹙を買う嵌めになるかもしれませんよ? こんな美少女が周囲から言葉の暴力を受ける……その原因を、冬華ちゃん作るんですか?」
 その言葉で、周囲を歩いていた人々が瞬時に距離を置いたが、それはさておき、ここまで言われて、少女を振り払えるほどリオは非情に徹していない。
「ぐ……」
 言葉につまり、振り払おうとした力を緩める。それを確認して少女は嬉しそうに眼を細めた。
「ん~、やっぱり冬華ちゃんですねー! なんだかんだ文句言う割には優しいんですから。それじゃあ、テキパキと参りましょうか!」
 左手に紙袋、右手にリオを持ちながら、人々の間を縫っていく少女。それに追従しながらリオは、とりあえず暇を潰せることにはなる、と出来るだけ良い方向に考えようとしていた。
 でないと、心労でどうにかなりそうだ。
「そういえば冬華ちゃん、あんなところで何してたんですか? お買い物に来たって感じではないですよね。あ、まさかまさか、デートのご予定でもありましたか? それは私としては出歯亀……ではなくて、邪魔をしてしまいましたか」
「あー…いえ、ただ単に暇を潰してただけです」
「あやや、相変わらずですね。またしてもですか。小さい頃から冬華ちゃんはじっとしているのが苦手でしたよねー。お家とび出すたびに私や春姉ぇが探し回ったのもいい思い出ですよー、まぁ、今も十分小さいんですけどね!」
 朗らかにさらりと傷つくことを言い放ち、少女は家路を急ぐ。少女の細腕に何処にそんな力があるのか疑問に思うほどに、有無を言わせずリオを引きずり、ズンズンと道を進んでいく。
「それでそれで? 冬華ちゃん一人ってのもおかしな話ですね。春姉ぇやおじさんたちはどうしたんですか? まさかまた家出なんてして来たんじゃないですよね?」
「……だから、さっきから言ってるじゃないですか。ボクはリオって言って、あなたの言ってるトウカって子とは別人だって」
「まだ続けますかその遊び。まぁ久々ですし私も付き合ってあげましょう。それじゃ質問を変えますけど、冬華ちゃん、今何処に住んでるんですか? ここから近いなら、今度は私が遊びに行きたいんですけど」
「ヨコハマ、ですよ」
「んむ? それはちょっと遠いですね……ってちょっと待って下さい。あの辺りはほとんど廃墟しか残ってないはずですよ? まさか冬華ちゃん、本当に家出してきた……の割には小奇麗な格好してますね。んん?」
 首を捻る少女に、自分が軍関係の人間と告げるべきかどうか迷うリオ。
 こちらの世界の軍と言う組織は、一般大衆に何処まで情報を開示しているのかでリオの言葉は決まってくる。それこそ所属基地から部隊の仲間まで開示する場合もあるし、ただ一言軍関係の仕事としか言えない場合もある。はっきりとした線引きが出来ない以上、リオとしても、国連軍横浜基地に所属している、とは言いづらい。
 とは言え、出会ってからまだそれほど時間は経っていないが、目の前の少女が見た以上に面倒な相手だと言うことはわかった。曖昧な答えであれば、藪蛇になるのは目に見えている。
 となると、答えは一つだ。
「それは、秘密です」
 はっきりきっぱりしかし目を逸らしつつ、リオは言い切る。その態度に少女は、何度か目を瞬かせ、やがて笑みを浮かべる。
「秘密なら仕方ないですねー。女性には誰でも秘密があるってものですから、あ、勿論私にもありますよ」
 ふふん、と若干薄い胸を張る少女を、呆れた表情で見つめるリオ。その視線の何を勘違いしたのか、少女は目を光らせた。
「ん? 何ですかその目は? もしかして私の秘密知りたいんですか? あやや、その情報は少々高いですよ?」
「いえ、別に興味はないです」
「何とっ! こんな美少女の秘密に興味がないというんですか!? それとも逆にお前の秘密はすべて知ってるとでも言うつもりですか!? ま、まさか冬華ちゃん……私のあんな事やこんな事、そんな事まで既に知り尽くしているのですか!? ああ、何てことでしょう……お父様、お母様、申し訳ありません。私既に汚されてしまっていました……」
「…………」
 もうやだこの人。
 突っ込む気力すら沸かないリオを後目に、小芝居を続ける少女。
 周囲の人間から奇異の目で見られてるし、何人かは温い視線を送ってくるし。この少女の奇行はそんなに微笑ましいか? じゃあ代わってくれ。
 そんな意図を含んで辺りの人間達に放たれたリオの視線は、悉く目標を外して宙へ消えていく。どうやら作戦の引継ぎは認められないらしい。足早に去っていく人々を恨めし気に眺めながら、リオは引き摺られて行く。
「さー着きましたよ。いやはや、冬華ちゃんが家に来るのなんてどれくらいぶりですかねー……おっと、とりあえず、荷物持って付いて来て下さい」
 逃げようとしたリオの意図を察したのだろう、自身が持っていた袋をリオに押し付け、手ぶらのまま家へと入っていく。道路に放り投げるわけにも行かず、しぶしぶその後についてくリオ。玄関の扉の横に「最速」と書かれた板を見つける。
「さいそく……」
 そう呟いたリオの脳天に、少女が軽いチョップを落す。
「まーた間違えましたか。私の苗字は『もとはや』だって言ってるじゃないですか。最速彩(もとはや あや)、この美少女の名前だと今すぐ冬華ちゃんの頭に刻み込んでください。まぁ、私の苗字は初めての方は絶対読めませんからね、学生時代なんて『点呼の初見殺し』なんて有難くもない二つ名を頂いたものですよ。苗字間違えて慌てる人を見て楽しんだのも良い思い出です」
 半分確信犯かこの女。
「まま、ここまでお手伝いしてもらったお礼もありますから、冬華ちゃん適当に寛いでいて下さい。ああでもベッドの下は探っちゃいけませんよ? まだまだ冬華ちゃんには早すぎますからね!」
 台所に消え去りながら、そんなことをのたまう少女―――彩を華麗にスルーし、リオはソファに腰を下ろす。久しく感じたことのなかった心地よい感触を楽しみながら、ふと、壁掛け時計に目をやった。
 解散前に言われた集合時間までには、まだ若干の余裕がある。それを確認した瞬間、先程までの疲れがどっと押し寄せてきたリオは、ポフッと軽い音を立て、ソファに横になった。体全体が沈んでいくような錯覚にとらわれながらも、今日はじめて、肩の力を抜くことが出来た。
 何を今まで緊張していたんだ、と内心苦笑しながら天井を見上げる。
「知らない天」
「そぉいっ!!」
 漠然と思い浮かんだ言葉を呟こうとした瞬間、置いてあったであろうクッションが顔面に降ってきた。柔らかい衝撃とともに視界が暗転する。
「冬華ちゃん、それ以上いけません。いくら私でも堪忍袋の尾は108式までしかありませんので」
 暗闇に声だけ聞こえてくる。顔面に乗っていたクッションをどかし、視線を動かせば、卓上にカップを並べる彩がいた。
「んん、冬華ちゃんは昔からココアでしたよね。最近じゃそうそう天然物なんて手に入らないんで合成で勘弁してくださいよ。意外と飲めるものなんですから」
 湯気を立てるココアをカップに注ぎ、彩はリオへと差し出してくる。両手で受け取り、少しばかり口を付けてみた。
 本来あるべき濃厚さは見る影もないが、一応味自体はココアのそれである。確かに合成食品の中ではまともなほうだ。元の世界以来、随分と久々に飲んだそれに一息つきながら、ふと視線を感じた。
 カップに口を付けたまま上目遣いに視線の元を探るリオ。もっとも、探るまでもなく根源は彩だとわかっているのだが。
「……何ですか?」
「いえいえ、こうして冬華ちゃんと過ごすのも久しぶりなもので随分と懐かしい気持ちになっちゃいましてね。そうですねー、あれは4、5年前ですかね。まだこっちはそれほど慌ててなかった時期ですよ」
 目を細め、微笑をリオへ向けながら、彩は言葉を紡ぐ。彼女の言う『慌てていた時期』とは日本本土がBETAに蹂躙されていた時のことだ。
「あの頃冬華ちゃんは何かに付けて、私の家に遊びに来てましたからね。まぁ春姉ぇがよく家を空けていましたし、お昼中はご両親もお仕事へ行かれてましたしね、仕方がなかったと言えばそうなりますが」
「そうでしたか」
「むむ、忘れたんですか? 三食昼寝つきご希望ならお泊りも可、別途料金で添い寝もあるよ! という好待遇に付け入って、散々人の家を蹂躙してたじゃないですか」
「言葉面だけで聞くととんでもなく如何わしい生活に聞こえるんですが。まず間違いなくボクの気のせいですよね?」
「私が楽しかったので別にいいですけど。で、あれですよね。そんな生活が何日も続いたある日、事件は起こります」
 ふっと視線を鋭くした彩が言葉尻を下げる。先程までの空気を無視して、彼女の口が重い空気を吐き出した。
「覚えてますか? あれは確か大雪が降った日でしたよね……春姉ぇが私の家に駆け込んでくるなり血相変えて『冬華居ないっ!?』って叫んだんですよ。私も、私の両親も突然のことで、何が何やら判らなかったんですよね」
 ココアを一口。反応を寄越さないリオに、それでも話自体は聞いていると判断したのか、言葉を続ける。
「よく聞いてみれば、春姉ぇと冬華ちゃんが喧嘩して冬華ちゃんが家を飛び出したなんて言うじゃないですか。改めて言いますけど、あの日は朝からの大雪で辺り一面銀世界だったんですよ。お隣の白岩さんだって『久しぶりに本気になるわね』とか言いながら雪かきしてたものです。そんな状況で、冬華ちゃんが家を飛び出した、しかも顔見知りである私の所にも居ないとなると、そりゃもう春姉ぇの取り乱しようったら見てられませんでしたよ。何時から駆けずり回って探してたのか、全身雪でびしょ濡れ、唇なんか真っ青だったんですから」
「……」
「私が『来てない』って伝えると、そのまま飛び出そうとしましたからね。とりあえず、父さんが代わりに探しに出て、春姉ぇを私と母さんで無理やり着替えさせて暖めて……いやはや、なかなかに騒がしかったものです。で、結局のところ守近さんところで拗ねてたのを父さんに発見されてそのまま連れて帰って来て。冬華ちゃんったら帰ってくるなりいきなり、『ごめんなさい』って言って泣き出しましたからね。大声出してわんわん泣いてそれでもひたすら『ごめんなさい』って言いながら……何があったかは結局判りませんでしたけど、それを見てた春姉ぇもつられて泣き出して。ご両親が迎えに来る頃には2人とも泣きつかれて寝てましたよ」
 その場面を思い出したのだろう、手に持っていたカップを卓上に置き、こちらを見つめてくる。その目は何かを期待している光を帯びていた。
「……で、それをボクに聞かせた理由は?」
 リオの言葉に、はぁ……と彩が溜息をつく。
「察しが悪いですねー。私としては守近さんのところでどんなことを言われたのかが気になるんですよ。あれほど意固地だった冬華ちゃんを心変わりさせる言葉ってのが、どんなものか気になるじゃないですか」
「そういうことは普通聞かないと思いますけど」
 その言葉に彩はダンッと机を叩く。
「他人の普通なんて知ったことじゃないですよ。私が望むのは唯一つッ! この天才美少女最速彩の知的好奇心を満たしてくれることのみっ!! 知ってますか? 人間の脳味噌は考えることを放棄すると退化するんですよ。故に私は考えを止めません、思考放棄しません、ただひたすら貪欲に脳に情報を送り続けて新しい発見を繰り返すのみですよっ!!」
 言い切った。いつの間にか立ち上がり、握りこぶしを振り上げ、鼻息荒く彩は言い切った。そこへ、
「それって結局、他人の迷惑顧みずに秘密を探りまくるってことですよね」
 リオの言葉が突き刺さる。しかし彩もなかなかどうしたもの、刺さっただけでは終わらない。突き刺さった言葉を抜き取り、放り捨てながら意気込む。
「駄目ですよ冬華ちゃん。人の行動を悪しく言うのは一面しか見ず思考停止している証拠ですよ!!」
「何という意見の押し付けぶりですか」
「まぁ冬華ちゃんの貧相なボキャブラリーだとそうとも言うでしょうね!!」
「言語学者の豊富なボキャブラリーでもそうとしか言わないでしょうね……」
「他人の評価なんか気にしていたら個人の自由は消滅してしまいます! さぁさぁ、冬華ちゃん、きりきりと吐いてくださいっ!!」
 胸元に入っていた手帳を取り出し、目を輝かせ身を乗り出してくる彩。そんな彼女にリオが言うべき台詞は既に決まっている。
「その情報は少々高いです」
 嘆息を混ぜながら彩に言われた台詞を返すと、「くっ! やはり重要度の高い情報は割高ですね!! あえて相手を焦らし、自身に都合よく流れを持っていく……冬華ちゃん、成長しましたね!」などど勝手に盛り上がっていた。
 寛いでいた筈なのにいつの間にか疲れが溜まっていたリオは、盛り上がる彩を後目に体を解しながら、再び壁掛け時計に目をやった。
 いつの間にかいい時間が過ぎていたのだろう。そろそろ集合場所へ戻ろうか、と視線をおろした先、棚に立っているものに目が行った。未だに「はっ! まさか冬華ちゃんは私の体が目当て!? だからあんな法外な請求をしてきたのですか! ああ、父さん母さん。女の武器の使いどころは此処なのでしょうか……」とか暴走している彩はもはや無視し、それに近づく。
 写真立てだった。数人の大人の前に幾人かの子供が立っている。家族ぐるみでの集合写真なのだろう、柔らかい笑みを浮かべている母親達らしき人物や、肩を組み合っている父親達らしき人物も見える。そしてその前に並んでいる子供たちに目をやった。
「……!」
 ドクンッと心臓が跳ね上がった。目に映ったのは何人かの人間。水色の髪でリュックを背負っている少女や奇妙な形をした帽子を被っている少女はわからないが、背筋を伸ばしこちらを見つめてくる紅い髪の女性はどこかで見たことがある。
 その内の1人は未だ暴走している彩だろう。幼いながらも白いシャツに紐タイプの黒いリボンとミニスカートは変わっていない。健康そうなスレンダーな手足、溌剌とした笑顔、そして貧相な体型。
 問題は彩の隣に女性。年上なのだろう、彩とは違い年相応のスタイルを涼やかなワンピースに包み、こちらへ花の咲いたような笑みを向けている。まるで蜂蜜を流したような金色の髪に、最高のバランスで収められた顔の部品。そしてそれを引き立てる抜群のプロポーション。写真越しでさえ、その女性は美女といえた。
 そう、それが見覚えのある人物でなければ。
「朝光中尉……?」
 そう、写真の中の人物は朝光なのだろう。若干昔の写真のため微妙な違いはある。しかし、それを差し引いたとしても写真の人物を朝光だと特定するのは容易だった。
「あー懐かしいですね。父さんが飾ってたのを忘れてましたよ。しかし、春姉ぇはこの時から綺麗ですねー、同じ女性としては羨ましくもありますよ。一度あの美貌の秘密を聞き出さないといけませんね」
 後ろから聞こえてくる彩の言葉を聞き流しながら、リオの目は別の一人へと向けられた。
「―――ッ!!」
 声を出さなかったのは自分でも褒めてやりたい。もっとも今のリオにそんな余裕はなかった。
「こうやって見ると冬華ちゃんも随分と成長したものですねー。あんなに小さかったのに」
 後ろから覗き込んでくる彩の言葉が全てを語っていた。
 朝光らしき人物の前で立っているその子供は、笑みを浮かべながら、こちらへ視線を向けていた。その瞳の色は髪と同じ銀髪。銀糸のように繊細なそれは自身と同じだった。
「な、んで……?」
 紡げた台詞はそれのみ。当たり前だ、おそらく今のリオと同じ状況に置かれたら、百人中百人は同じ反応を返すだろう。
 自分とそっくりな人物が写っている写真を見つけたら。



 その後のことは良く覚えていない。時間が迫っていたことを言い訳に彩の家を後にし、集合場所へと戻ってきた。何処をどう通ってきたかはうろ覚えだが、脚はしっかりと道を覚えていたのだろう、さほど迷うこともなく目的地へと到達する。
「あ、やっと帰ってきたねリオ。店の外で待っててって言ったのに何処行ってたの?」
 いち早くリオの姿を見つけた柏木が尋ねてくるも、頭が未だに混乱しているリオは曖昧な返事し返せない。女性陣に怪訝な表情をされるもどうしようもなかった。
「どうしたのリオちゃん。何か変なものでも見たの?」
 すっと腰をかがめてリオへ視線を合わせてくる朝光。まっすぐにこちらを見つめてくる瞳に、自分の姿を確認してリオは思わず視線を逸らす。それが朝光には気になったらしく、リオの頬へ両手を当て、無理やり自分へと視線を向けさせた。
「理由もなくそういうことされると流石におねーさんも傷つくわよん? 言い辛いことなの?」
 珍しく真に迫った台詞を吐く朝光。リオはようやく口を開く。
「……朝光、中尉は」
「ん?」
「朝光中尉は、自分とそっくりな人間がこの世に存在すると思います?」
 突拍子もないリオの質問に、普段なら一笑に付すだろう朝光は一旦口を閉ざした。
 何かを考えるように、そして探るようにリオを見つめた後口を開く。しばらくして出てくるのはいつもどおり軽い口調。
「ん~そうねー。個人的には居るとは思ってるわよ? だっておねーさん自身世界中の人間の顔を知ってるわけないじゃない。となると、そっくりの人間が居たとしても不思議ではないわねぇ。まぁ想像するのと実際に目の当たりするとじゃ反応も変わるでしょうけどね」
 こんな美女、世界にもそうそう居ないでしょ? と言葉を結んだ朝光に、話を聞いていた女性陣の中から、自分で言うな、と突っ込みが入った。それに返している朝光にリオが再び口を開く。
「じゃあ、居ないという前提ならどうなります?」
「んん? 居ないのに居たって事? それは矛盾してるんじゃないかしら。そうなるとどっちかが偽者ってことになるんじゃないの? 元々あった存在を真似てるだけなんだから」
「偽者……ですか」
「どうかしたのリオ? さっきから朝光中尉に妙なこと聞いてさ。ドッペルゲンガーでも見た?」
 カラカラと笑いながら、涼宮がそんなことをのたまった。それには返答せず、リオは朝光へと質問を投げかける。
「朝光中尉って……妹か弟います?」
 リオのその言葉に、一瞬朝光の表情が歪んだ。が、それも一瞬のこと次の瞬間には普段どおりの笑顔。
「居たわよ」
 発せられた言葉はそれのみ。まるでそれ以上は喋りたくないというように、朝光は口を閉ざす。その迫力にリオの追求も喉の奥で消えた。
「そうですか、わかりました。いえ、実はさっき朝光中尉の知り合いだという方にお会いしまして。その方から中尉の昔のお話を聞かせてもらっていたんです」
 先程の質問を誤魔化すかのように早口で捲くし立てた。それに朝光は乗ってくる。
「この辺りにおねーさんの知り合いって居たかしら? 名前は聞いてる?」
「最速彩って女性ですけど」
「あや…あや…」
 しばらくぶつぶつと呟いていた春華は、ようやく思い出したのかポンと手を打った。
「ああ!! あーやね! ハイハイ知ってるわよぉ。ていうかあの娘この辺りに住んでたの? というかおねーさんの昔話って何か言ってた?」
「いえ、特には。ただ朝光中尉の知り合いだとしか。ただ、『今度は春姉ぇも交えて話し合いたいものですね』とは言ってましたけど」
「その呼ばれ方懐かしいわねぇ。残念だわー、居場所わかってたら殴りこんでたのに」
 チッと心底残念そうに舌打ちしながらそんなことを言う朝光。
「え、朝光中尉ってその彩って娘と仲悪いんですか?」
「そんなことあるわけないじゃないの。でもねぇ、純粋に仲が良いってわけでもないかも知れないわ。お互いに信用は出来るけど信頼は出来ない間柄かしら」
「若干荒んでますね」
 柏木の突っ込みに苦笑を返す。
「まぁでも会えばお茶するぐらいには仲がいいと思ってるわよ? まったくリオちゃんったら、そんなイベントがあるんならおねーさんも誘ってちょうだいよ」
「そう言われましても。ボクとしても突発的な出来事だったんですから」
「ま、良いわ。さて、各々随分と楽しい時間を過ごしたようだけど、忘れ物はないかしら?」
 朝光の言葉に、涼宮や柏木が、無いでーす、と軽く返す。それを聞き満足げに頷きながら、言葉を続ける。
「それじゃ皆、帰るまでが遠足よー。みぃちゃんに怒られないうちにさっさと帰還しましょうかー」
 軽く纏めた朝光が隊を率いて帰還の途に付く。いつの間にかリオは朝光に手を握られながら、それに追従した。



 ツカツカと若干早足になりながら、リオは香月の私室を目指していた。
 珍しいことである。リオのほうから香月のところへ赴くということは滅多にないからだ。
 呼び出されることはあるものの、リオ自身香月と好んで話そうとは考えない。あのマッドサイエンティスト副司令に一度捕まると、彼女自身が疲れない限りどう頑張っても解放されないからだ。しかも、何かしらにつけてデータの纏めだの、戦術要項の考案だの、「宿題」を言いつけてくる。
 労働分の報酬は振り込まれるとは言え、進んで貴重な睡眠時間を削ろうとはリオ自身思っていない。
 では何故、そんなほぼデメリットしかない場所を赴こうとしているのか。
 それは、今日の昼に目撃した物について香月に意見を聞こうと考えたからだ。
 彩の家で見た写真に写っていた、自身とそっくりな人物。彩は本人だと誤認していたが、リオ自身写真に取られた覚えもなければ、家族を持った覚えもない。他人の空似で済ませることも出来たが、それには数日前に香月が言った台詞が気に掛かった。
『外には自分と同じ人間が3人は居る』
 この台詞を吐いたとき、香月が意味深な表情をしていたのはこういう事態を想定したからではないのか。となれば、彼女は自分の知らないことを知っている。
 ただでさえ、何も知らない世界での軍生活。得られるのなら出来る限り情報は持っておきたい。元々一つの情報が生死を分ける世界で生活していれば、その重要度に対する意識は一般人のそれを遥かに超えている。
 それを得ようと、リオはわざわざ地下フロアまで降りてきたのだ。
 だと言うのに。
「このタイミングはワザととしか思えない……」
 よりにもよって香月は不在だった。ウンともスンとも言わない電子扉を睨みながら、リオは愚痴る。
 本人が本当に不在だろうが居留守を使っていようが、部屋に入ること自体が出来なければ話を聞きだす事も出来ない。舌打ち1つ寄越し、リオはもう1つ存在する扉へ近づく。
 もしかしたら香月はこっちに? という期待を半分と自身のパスで開くのかという不安半分で電子ロックを操作する。
 と、案外あっけなく扉は開いた。そこは薄暗い廊下が続いており、さらに奥に部屋があるのか電子扉がもう一枚存在している。
 廊下だけ開くということはないだろう、というリオの想像通り、奥にあった電子扉もたやすく開いた。
 最初に目に飛び込んできたのは、何とも雑然とした部屋の内装だった。まるで血管のようにそこら中にコードが張り巡らされ、何かの測定機器だろうか、それに準ずる物も配置されている。人が動き回ることは一切考慮せず、ただ機器とコードで埋め尽くされたその部屋は、生活空間というよりは、臓器の中の様だった。
 その部屋の中央でボンヤリと輝くものがある。逆光でよく見えないリオは、それに近づき、そして小さく悲鳴を上げた。
「ひっ!?」
 脳味噌が、浮かんでいた。
 まるで生体標本のように、薄く発光する液体の中に、脳味噌が脊髄ごと丸々浮かべられいてたのだ。
 それを目にして、リオは目を限界まで見開いた。
「何で……?」
 唐突に呟かれた問いに答えるモノはいない。我知らず一歩後ずさったリオは、脳味噌に嫌悪感を抱いたというより、「シリンダーに脳味噌が浮かんでいる」という光景に怯えているようだった。
「いやぁ……」
 いつの間にか少年はびっしょりと冷や汗をかいていた。奥歯をカチカチと鳴らしながら、一歩ずつ後ずさる。その目尻に薄らと涙が浮かんでいた。
 恐怖。
 それが少年が抱いている感情だった。
 何にそんなに怯えているのだろうか。
 後ずさりする少年が床を這うコードに脚を取られ尻餅をつく。ペタンと腰を付いた少年は、それでも脳味噌から距離を取ろうともがく。
 奥歯を鳴らしながら、涙を浮かべ、イヤイヤをするように首を振り。
 その背中が、トン、と何かにぶつかった。
 尻餅をついた状態のまま、さびた機械のようにゆっくりと顔を向ける。
「怖がらないで下さい」
 リオを見下ろしながら、そこに立っていた少女が小さく呟く。
「彼女も、怖がります」
 少女が言っていることの一割もリオは理解できていない。だがそれも、少女が次の台詞を吐くまでだった。
「それは、あなたじゃありません」
 その言葉を聴いた瞬間、先程のまでの態度を一変させ、リオは少女に掴みかかっていた。
「……何で知ってるの?」
 泣きそうな声で、歪んだ表情で、少女の肩を掴む。力加減を忘れた握力に、少女の表情が痛みに歪む。
「ねぇ、何で知ってるの?」
 泣きそう、ではない。既に泣きながら、リオは少女を揺さ振る。
「なんで知ってるの? ねぇ、なんで? ココはボクの居た世界じゃないんでしょ? だったら何でそのこと知ってるの? なんでこれがあるの? この世界にボクは居ないんじゃなかったの? ねぇ?」
 壊れたおもちゃのように「なんで?」と繰り返す少年は、既に力加減など忘れ去っていた。激しく揺さ振られる少女は、痛みに耐えるようにぎゅっと目を瞑り顔を背ける。
 それがさらに少年の神経を逆撫でした。
「ちゃんとこっち見てよ。ねぇ答えてよ。なんで知ってるの? 誰から聞いたの? どうやって調べたの? こっち向いてよ、なんでボクのほう見ないの? ちゃんと答えてよ!!」
 それまで一定だった声が一気に怒声へと変化した。その声に驚いたのか、少女はブルブルと震えるだけだ。
「いいよ。答えてくれないなら壊すだけだもん。こんなもの有ったて嫌なだけでしょ? 嫌なものはないほうが良いよね? じゃぁ壊そう、失くそうよ」
 支離滅裂な言葉を吐きながら、リオは脳味噌を納めるシリンダーへと近づくと、それを殴りつけた。
 勿論少年の拳一つで壊れるほど、柔な素材ではない。それでも少年は殴り続ける。
「なんで壊れないの? ボク確か前に壊したよね? あれと同じなら壊せるよね? なんで壊れないの?」
「やめて!!」
 少女の怒声が響いた。ぎゅっとリオの腰にしがみ付き動きを止めようとする。しかし、すでに拳のほうが壊れているにもかかわらず、リオは動きを止めない。
「離してよ、これはあっちゃ駄目なんだよ? こんなものあるの駄目でしょ? だから壊すの」
「やめて! 怖がってます、辞めてって言ってます!」
 少女が何を言っているか判らない。ただリオの頭は一刻も早く目の前の脳味噌を壊したがっている。
 扉の開く音がした。
「これだからガキは嫌なのよ……ギャーギャー喚き散らすだけならさっさと部屋に戻りなさい」
 なお拳を振るおうとしたリオの動きを止めたのは、呆れ含んだを冷たい声だった。
「私に用があって来たんでしょ? ただ単に喚き散らしたいだけなら自分の部屋でやってくれない? 社も私も、ガキの癇癪に付き合うほど暇じゃないのよ。さっさと用件だけ話して帰ってくれる?」
 胸の前で腕を組み、心底呆れ果てたような視線でリオを見下してくる香月。その言葉に頭の一部を冷却されたリオが、本来の用事を切り出す。
「この世界に、ボクは居ないんじゃなかったんですか?」
 リオの言葉に香月は一瞬考え込む素振りを見せる。
「確かに『リオ・レムレース』という人物は存在しないわ。それといきなり結論から話すのは辞めなさい。そこまでに至った経緯と何故そう思うのかを説明して」
 端的なリオの言葉に、話の全容を掴みきれなかった香月が吐き捨てる。無駄なことを嫌う彼女は、他人に二度手間を掛けられることを極端に嫌うのだ。
「今日、ボクとそっくりの人間が写っている写真を見つけました。そしてその写真の持ち主に写っている本人と間違えられました」
「ただ単に他人の空似じゃないの? よく言うじゃない。外には自分と同じ人間が……」
「惚けないでください。数日前にも貴方はそう言った。ただの偶然で片付けられるほどボクは素直じゃないんです。まったく別の世界なのに、どうして同じ顔の人間が居るんですか? それにあの脳味噌。少し取り乱しましたけど、あれだってボクにとっては見たことがあるんですよ。此処はボクが居た世界とはまったく別なんでしょ? だったらどうしてこんなに似てるんですか」
 最後のほうは詰問に近い。それを受け止めるのは香月の冷笑のみ。
「ただの偶然よ」
 面倒くさそうに、香月は一言だけ言ってのけた。その言葉にリオの意識が白熱する。
「っふざけんな!! 何で教えてくれないんだ!? あの脳味噌も、こっちのボクもあんたは何か知ってるんだろ!! 別にあんたが損する訳でもないのに、何でそんなことも喋ってくれないんだ!!」
 頭に血を上らせたリオが怒声を発するも、冷め切った表情の香月の反応は変わらない。
「私が知っていること言えば、貴方がまだ知るべきことではないということだけね。必要ならこちらから喋るわよ。それが理解できないほど子供でもないんでしょ? だったらさっさとお引取り願いたいわね。貴重な脳のキャパを下らない質問なんかで使いたくはないの。ましてや他人を頼るしか能のないガキンチョ相手なんてもっての外ね」
 電子扉を開き、リオに対してひらひらと手を振る香月。その冷徹な香月の反応が、かえってリオを正気へと引き戻した。これでもし香月が怒声でも上げていれば、現場は収拾の付かないことになっていただろう。
 こうなっては幾ら粘ろうと情報など出てこない。暴力に物を言わせることも出来るのだろうが、それは今後のリオの生活に大きく響く。手に入る情報の重要度がわからない以上、最終手段に出るのは早計だった。
「…………」
 視線に物理的な力があれば人を殺せる。それほどの憎悪を込めてリオは香月を睨みつけながら、部屋を後にした。扉が閉まり、外界と隔絶されたのを確認して、香月はようやく肩の力を抜く。
「理性が弱い分、白銀より面倒ね……」
 小さく呟いた香月は、先程から事の成り行きを見守っていた少女へと視線を向ける。
「社、リオがこれ見たとき、あなたは何が見えた?」
 そう言って部屋の中央に鎮座する脳味噌を指し示す。香月の言葉に、社と呼ばれた少女は一瞬口篭もるも、やがてポツリと切り出した。
「あの人は、とても怖がっていました。真っ暗で、でも沢山の色が混じっているような変な色で……嫌な感じです」
 小さな肩を抱いて、社はそう言い切る。それは何かを怖がっているようだ。
「嫌な感じ? 抽象的でいいわ、どんな風に感じた?」
「……気持ち悪かったです。まるで、見世物になったような気分でした。纏わりついてくるような色と、じっとこちらを見つめてくるたくさんの視線を感じました。それに頭の中に響く声……」
 感情の起伏の乏しい淡々とした声で、それでも少女は嫌悪感をいっぱいに表現して語る。
 その瞳が泣きそうになっていることに気づいた香月は、もういいわ、休みなさい、と優しく声を掛ける。
 去っていく少女の後姿を目にしながら香月はボソリと呟く。
「……まぁ、あんな無茶なモノが失敗も無しにいきなり作れるわけないわよね」
 香月にしては珍しく、僅かな後悔と嫌悪感を混ぜた独白は誰にも聞かれることはなかった。



 後書き
 此処までお読み頂き有難うございます。D-03です。
 まずは……やってしまいました。出来るだけ罹患しないように注意していたのに……。書きたいように書いていたらいつの間にか発病していました。読まれる方によっては気に入らないと思われるかもしれません。しかし、今回はひとえに筆者の表現力不足によるところですので、リオたちを嫌うことは御容赦ください。彼らに罪はありません。
 さて、後悔はこのぐらいにして。
 新キャラがどこかで見たことがあるでしょう。彼女の持っていた写真に写っている人間も判る方は判ると思います。しかし、本人ではありません。他人の空似ですよ。
 さて、次回はとうとうクーデター発生となります。そしてクーデターと言えば、ヴァルキリーズに3人目の欠員が出るということですが……恐らく読まれている方は次は誰が消えるか薄々予測がついていると思います。そしてたぶん正解です。
 リオにとっては「コレハ、メンドウナコトニ……ナッタ……」という状況でさらに追い討ちが来ることになるわけですが……主人公は苦しんでナンボですよね。
 では、次回もどうぞ、リオにお付き合いください。